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彼岸中日 四天王寺で日想観

 

彼岸中日(春分の日)の3月20日、大阪の四天王寺(大阪市天王寺区)で、日没前の午後5時20分より「日想観(じっそうかん)」の法会が極楽門で行われた。

彼岸とは、春分の日と中心とする前後7日間が「春の彼岸」である。この頃には寺院では彼岸会の法要が行われ、民間では墓参する。

その中日の春分の日は、昼と夜の長さがほぼ同じになり、太陽が真西へと沈む。この日、日が沈むころ、四天王寺で行られるのが「日想観」だ。極楽門から西を見ると、西門の石の鳥居の真ん中に落ちていく太陽は、さながら身近にお浄土を照らすような荘厳さを感じられる。

 

四天王寺は聖徳太子建立の、日本でも最も古い寺院である。大陸からの使節もその荘厳さに息を飲んだのではないだろうか。

 

 

中世の頃以前の大阪湾の様相はずいぶん違っていて、小高くなった上町台地のすぐ西側まで海が迫り、すっと見渡せ、遮るものもなかった時代であった。そのような中で、聖徳太子によって建立された四天王寺のあたりは、太陽が真西に海に沈みゆくのを眺めるに絶好の場所で、その様子がさながら極楽浄土へと続くような荘厳さであったことは想像に難しくないのである。

 

 

中世の時代は浄土思想が日本国中に広がる時代である。中世の頃は、釈迦が入滅して2500年になり、釈迦が説いた教えが廃れて、人も世も、正しい教えが行われなくなる、もっとも最悪な時代になるといわれる”末法思想”が広がった。そして阿弥陀如来のいる西方の極楽浄土に導いてもらおうと、多くの人々が貴賤を問わず祈り参ったのである。

そのように、四天王寺の西門石の鳥居は、古来より極楽の東門に通じると信じられてきた。そして石の鳥居の真ん中に落ちていく夕陽を見ていると、思わず手を合わせ、ありがたさを感じるのである。

 

能の演目に「弱法師」がある。

河内国高安(現在の大阪府八尾市付近)に住む高安通俊は、他人の讒言を信じて、実子の俊徳丸を家から追い出してしまう。後悔した通俊は、俊徳丸の現世の安穏と来世の極楽往生を願い、春の四天王寺で七日間の施行(施しによって善根を積む修行)を営む。そしてこの四天王寺西門で、偶然にもボロボロの乞食の風体をした俊徳丸と確信・再会し、俊徳丸は自分の子であることがわかるとともに、日想観を勧める。

弱法師とは、「よろよろと歩く乞食坊主」という意味で、侮り呼んだ言葉で、それほど俊徳丸は痩せこけて、ボロボロの僧衣を身に纏い、足元もおぼつかない風だった。この当時はそのような、半俗半僧の風体をした者が多く、諸国を歩いたのである。そしてこの頃の四天王寺の西門あたりには、そのような沙弥が住み、善行を積む修行をし、また全国を遊行する中で、日本でもっとも極楽に近い、日本最古の四天王寺で行うことの功徳などが伝わり、浄土信仰もあって多くの人々が参ったのであろう。

そして特に、太陽の長さが等しくなり、真西に太陽が沈むこの場所で、俊徳丸のように、石の鳥居の間から見える太陽に手を合わせたことから「日想観」も広まっていったと思う。

 

「観無量寿経」というお経の中では、西方の極楽浄土へ行く方法が書かれていて、16種類の「観想」が記されている。その一番最初にあるものが西方の浄土を思って、日没の様子を観想し、極楽浄土を想ったのである。

四天王寺は、聖徳太子創建の、日本でもっとも古い寺院で信仰されており、真西に大阪湾の開けた地であったことから「日想観」を修し、極楽浄土へ通じる絶好の地であったのである。

 

四天王寺の日想観は、しばらく絶えていたが、平成13年(2001)の秋の彼岸中日から再興されたもので、1年に2回、春と秋の彼岸の両日の17時20分より。真西に西門石の鳥居に沈みゆく太陽に向かって、極楽門より法会が行われるのである。