国内外40館以上から貴重な作品が一挙集結!
モネ 連作の情景
2024年2月10日(土)~5月6日(月・休)
印象派の代表的な画家のひとり、クロード・モネ(1840‐1926)は、自然な光と色彩に対する並外れた感覚を持ち、柔らかい色使いとあたたかい光の表現を得意とし、自然の息遣いが感じられる作品を数多く残しました。同じ場所やテーマに注目し、異なる天候、異なる時間、異なる季節を通して一瞬の表情や風の動き、時の移り変わりをカンヴァスに写し取った「連作」は、巨匠モネの画業から切り離して語ることはできません。移ろいゆく景色と、そのすべての表情を描き留めようとしたモネの光と時に対する探求心が感じられる「連作」は、モネの画家としての芸術的精神を色濃く映し出していると言えるかもしれません。
1874年に第1回印象派展が開催されてから150年の節目を迎えることを記念し、日本に国内外のモネの代表作約70点が一堂に会す本展では、モネの代名詞として日本でも広く親しまれている〈積みわら〉〈睡蓮〉などをモティーフとした「連作」に焦点を当てながら、時間や光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。また、サロン(官展)を離れ、印象派の旗手として活動を始めるきっかけとなった。日本初公開となる人物画の大作《昼食》を中心に、印象派以前の作品もご紹介し、モネの革新的な表現手法の一つである「連作」に至る過程を追います。展示作品のすべてがモネ作品となる、壮大なモネ芸術の世界をご堪能ください。
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〚クロード・モネとは〛
印象派を代表する画家。1840年11月14日、パリ9区に生まれる。家族の転居に伴い5歳頃からル・アーヴルで暮らす。18歳の頃、風景画家ブーダンの助言により戸外で風景画を描き始め、パリに出て絵を学ぶようになる。1862年には、画塾でルノワールら仲間と出会う。1865年、サロンに初入選し、尊敬するマネに「水のラファエロ」と呼ばれる。その後はサロン落選が続き、経済的に困窮する。普仏戦争を機に妻子を連れてイギリスとオランダに滞在。1874年、第1回印象派展を仲間とともに開催。国内外を旅して各地で風景画を精力的に描く。1883年よりセーヌ川流域のジヴェルニーに定住。1880年代後半から自宅付近の〈積みわら〉を「連作」として描き始め、この頃から旅先での制作も「連作」の兆しを見せる。1891年、デュラン=リュエル画廊で〈積みわら〉の連作15点を公開。この個展が評判を呼び、フランスを代表する画家として国内外で名声を築く。連作はその後〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉〈セーヌ川の朝〉、ロンドンやヴェネツィアの風景、〈睡蓮〉などのテーマに及ぶ。晩年の制作は〈睡蓮〉が大半となり、眼を患いながら最晩年まで描き続けた。1926年12月5日、ジヴェルニーの自宅で86歳にて死去。ライフワークだった〈睡蓮〉の大装飾画はフランス国家に遺贈される。後半生の作品はカンディンスキーなど抽象表現主義の画家たちに影響を与え、モネの再評価につながった。「モネはひとつの眼にすぎない。しかし何という眼なのだろう!」というセザンヌの言葉が有名
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〚みどころ〛
みどころ1⃣
モネの連作絵画に焦点を当てた展覧会
戸外制作時にみられるモティーフの一瞬の表情や風の動き、時の移り変わりに着目したモネは、同じ場所やテーマを異なる天候、異なる時間、異なる季節を通して描き、「連作」という革新的な表現手法により発表しました。
本展では、モネの代名詞として日本でも広く親しまれている「連作」に焦点を当てながら、時間と光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。
《ウォータール橋》
みどころ2⃣
100% モネ!! 展示作品のすべてがモネ
国内外40館以上から代表作を出品
印象派を立ち上げる以前のモネは人物画も多く手掛けていました。
本展は、日本初公開となる人物画の大作《昼食》を中心にした「印象派以前」の作品から、〈積みわら〉や〈睡蓮〉などの多彩なモティーフの連作まで、展示作品のすべてがモネ。” 100%モネ ” の贅沢な展覧会です。
海外30館以上を含む、国内外40館以上から集められた代表作を堪能できる、またとない機会となります。
みどころ3⃣
印象派の誕生(1874年)から150年を迎える節目の展覧会
モネは、当時フランスの画家にとってほぼ唯一で最大の作品発表の機会だった、国が主催する公募展であるサロン(官展)から距離を置き、新たな発表の場として仲間たちとともに1874年4月に第1回印象派展を開催しました。
本展は、「印象派」の誕生から150年目を迎えることを記念して開催される展覧会です。
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〖第1章〗
印象派以前のモネ
Monet, His Early Works
パリで1840年に生まれたモネは、5歳から18歳までの成長期をフランス北西部のル・アーヴルで過ごします。学校の勉強は嫌いでしたが、素描を習得し、描き始めた似顔絵(カリカチュア)が地元で評判を得ました。そんなモネは17歳で風景画家ブーダン(1824-98)と出会ったことで運命の転機を迎えます。ブーダンはモネを戸外のスケッチに誘い、風景を描くことに開眼させたのです。ブーダンとモネの親交は生涯続きました。
画家を志したモネは18歳でパリに出ます。アルジェリアで一年余の兵役を務め、この頃オランダの画家ヨンキント(1819-91)にも影響を受けています。パリで絵の勉強を続け、画塾で出会ったピサロ(1830-1903)やルノワール(1841-1919)、シスレー(1839-99)、バジール(1841-70)と親交を深めました。
当時フランスの若い画家にとってサロン入選は唯一の登竜門で、モネは1865年に2点の海景画でサロンに初入選します。
翌年も、のちに妻となるカミーユ(1847-79)をモデルにした《カミーユ(緑衣の女性)》と風景画が入選。順調なデビューを飾り、ゾラ(1840-1902)が好意的な美術評論を書き、マネ(1832-83)にも注目されました。しかしその後、戸外で描いたモネの意欲作を保守的なサロン審査員の多くは評価せず、1867年以降は落選を重ねました。
1870年7月に普仏戦争が勃発すると、徴兵を逃れるためモネは妻子とロンドンへ避難します。翌年に休戦すると、オランダ滞在を経てパリに戻りました。本章ではサロンに落選した初来日の大作《昼食》を中心に、オランダで描いた風景画などモネの初期作品をご紹介します。
ルーブル河岸 〚初来日〛
1867年春、モネが許可を得てルーヴル宮殿の東ファサードから見下ろして描いた作品と考えられています。カンヴァスの上半分を空が占め、下半分はルーヴル河岸(ルーヴル通り)を往来する馬車や人で賑わいます。セーヌ川を挟んだ遠方のパリ左岸にはパンテオンのドームが見えます。伝統的な様式で描かれた、モネには珍しい都会の風景です。
昼食 〚初来日〛
食卓に座るのは、後に結婚するカミーユと 息子のジャン。幸せそうな2人を見守る来 客の女性と、様子をうかがう女中の姿もあ ります。プライベートな情景をモネは高さ 230cmを超える大きなカンヴァスに描き ました。周到に準備した意欲作でしたが 1870年のサロンに落選。希少な「モネの黒」 を味わえる初期の代表作は今回が初来日 です。
〖第2章〗
印象派の画家、モネ
Monet, the Impressionist
オランダから帰国したモネは、1871年末からパリ郊外のアルジャントゥイユで暮らし始めます。マネやルノワールも風光明媚なこの地を訪れてモネと一緒に制作しました。ロンドンで知り合った画商デュラン=リュエル(1831-1922)がモネの絵を買い始め、束の間の満ち足りた生活を送ります。
モネと仲間たちはサロン落選の経験から新たなグループ展を構想し、やがて1874年春、パリで第1回印象派展が開催され
ます。1886年までに計8回開催された印象派展にモネは5回参加しました。第2回印象派展には和服姿の妻をモデルにした《ラ・ジャポネーズ》(1876年)を発表しますが、人物画の制作は減り、風景が主題となります。モネが好んだのは、刻々と近代化する都会の街景よりも、自然の情景、とりわけ水辺の景色でした。
フランスでは1871年に普仏戦争が終わると好景気に沸きますが、1875年、急激な景気後退が始まります。絵が売れなくなり、最大の顧客だった実業家エルネスト・オシュデ(1837-91)は破産し、モネは深刻な経済難に直面します。1878年にはヴェトゥイユへ移り、生活費節減のためオシュデ家(夫婦と6人の子)とモネ家(夫婦と2人の子)の同居が始まりました。1876年頃から体調を崩し始めたカミーユは1879年9月に32歳で病没。モネは最良のモデルでもあった妻を喪い、深刻な精神的危機に陥りました。
本章では、1870年代から80年代にかけて、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れたモネの作品を展示します。アトリエ舟で自在に移動し、戸外で制作した印象派らしい多様な風景画をご覧いただきます。
ヴェトゥイユの教会
パリから北西に60kmほど離れたヴェトゥイユを、セーヌ川に浮かたボートの上から描いています。教会を中央に据えたヴェトゥイユの街並みの下には、緑の土手とボート遊びに興じる人々が描かれ、それらと空を映し出した川面が画面の下半分を占めています。モネは揺らぐ水面への映り込みを見えるがままに描写しようと試み、短い筆致で軽くたたくように筆を運んでいます。
《モネのアトリエ舟》1874年 油彩、カンヴァス 50.2×65.5cm クレラー=ミュラー美術館
© Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, The Netherlands, photo by Rik Klein Gotink
セーヌ川に係留されたアトリエ舟を中央に、奥の岸辺にはアルジャントゥ イユの森や遊歩道、建物が描かれています。水面は穏やかで、アトリエ舟や 周囲の景色が静かに映り込んでいます。風景画家のドービニー(1817-78) に倣って造られたアトリエ舟は、ボートの上に小屋を設えたもので、モネは これに乗って川面や水辺の光景を多数描きました。
〖第3章〗
テーマへの集中
Focusing on One Subject
モネは新たな画題を求めてヨーロッパの各地を精力的に旅しています。拠点とするパリ近郊の村はもちろん、ノルマンディー地方のル・アーヴルやエトルタ、ブルターニュ地方のベリール島、イタリアのボルディゲラ、地中海に面したモナコ、アンティーブなど、制作地は多岐にわたります。地名の多くは作品名に記録されました。こうした旅を可能にしたのは鉄道網の発達です。
19世紀フランスではツーリズムが大衆化し、1847年にパリとル・アーヴルが鉄道で結ばれるとノルマンディーは人気の観光地となりました。
モネは旅先に数ヶ月滞在することもあり、集中的に制作しました。賑わう行楽地には関心がなく、人影のない海岸などを好んで描きました。長靴姿で歩き回り、時には険しい岩場に降りるなど危険を冒してまで対象に近づいてイーゼルを立てました。
本章ではノルマンディー地方のプールヴィルの海岸を描いた作品群が展示されます。1882年の作品では断崖などの目立
つ造形に着目して描きますが、15年後に再訪した際は、構図はさほど変えず、海や空の天候による変化を主題としています。同じくノルマンディーのエトルタもモネを魅了した土地で、1883年から86年の間に毎年訪れました。本展では奇岩のラ・マンヌポルトを間近に大きく捉えた2点をご紹介します。旅先に滞在中、同じ対象であっても季節や天候、時刻によって、海や空、山や岩肌の表情が絶え間なく変化する様子をモネはカンヴァスに描き留めていきました。
1883年12月にルノワールと旅した地中海沿岸に魅了されたモネは、翌年1月にひとりでこの地を再訪します。画家は輝くような光の下での植物や風景を明るい色彩で捉えようと奮闘し、それまであまり用いなかった青やピンクなども使うようになりました。本作はイタリアのボルディゲラからフランス方面を見た風景で、画面右側にはヴェンティミーリアの街並みが描かれています。
エトルタはノルマンディー地方の切り立った断崖と奇岩で有名な海辺の景勝地です。モネはドラクロワ(1798-1863)、クールベ(1819-77)などがエトルタの 奇岩を描いた作品を目にしていましたが、1883年から86年にかけて毎年この地で制作しました。奇岩「ラ・マンヌポルト」をクローズアップ構図で描いたこの2 作品は制作年に3年の開きがあり、縦横の違いとともに色使いにも変化が見られます。
〖第4章〗
連作の画家、モネ
Series Paintings
1883年春、42歳のモネはヴェトゥイユの下流に位置するセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住み、同居していたアリス・オシュデ(1844-1911)に家庭を託して制作に励みました。
モネが体系的に「連作」の手法を実現したのは〈積みわら〉が最初だと考えられています。ジヴェルニーの自宅付近で秋になると目にする風物詩を、当初はありのままに描きますが、1890年前後は集中的に取り組み、複数のカンヴァスを並べて、光を受けて刻々と変化する積みわらの描写を同時進行で進めたのです。配置や遠近の組み合わせを変化させ、陽光を浴びた積みわらは光と影のコントラストが強調され、抽象化していきます。本展に出品される《積みわら、雪の効果》は、1891年5月、デュラン=リュエル画廊で展示された15点の連作のうちの1点です。個展は大好評を博し、その後は〈ポプラ並木〉〈ルーアン大聖堂〉な
どの連作も生まれました。
1899年からはロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描きました。構図はより単純化し、湿り気のある大気が充満したような画面に建造物の形態が柔らかく浮かび上がります。大まかな筆致で光と大気を緻密に表現し、構図は同じでも一つ一つの作品は個性が際立ちます。
「連作」の着想源の一つにはモネが愛好した浮世絵の影響も指摘されています。モネは歌川広重(1797-1858)の『東都名所』などを所蔵しており、連なる風景表現の新たな可能性を見出したのかもしれません。
モネは1880年代中頃から91年にかけ てジヴェルニーのアトリエ周辺で多 くの積みわらを描いています。1886 年までに描かれた積みわらは家畜の 飼料用の干し草の山ですが、1890年 から91年に描かれた積みわらは、脱穀 前の麦を積み上げたものです。「連作」 では、似た構図の〈積みわら〉が、天候 や時間、季節による光の効果の違いに よって描き分けられています。
モネは1899年から1901年に3度ロンドンを訪れ、 テムズ川に架かる橋や国会議事堂などの連作を 手掛けました。その中でもこのウォータールー橋 は一番多く描かれた題材で、滞在したホテルから テムズ川下流の方向を見て描かれています。モネ はわざわざ霧の深い冬を選んでロンドンを訪れ るなど、ロンドン名物の霧を透過する複雑な光の 様相をとらえようとしました。
〖第5章〗
「睡蓮」とジヴェルニーの庭
Water-Lilies and the Garden in Giverny
後半生を過ごしたジヴェルニーはモネの尽きない着想源となります。セーヌ川支流のエプト川が流れる村の風景を四季折々にとらえて描きました。借りていた家と土地を購入し、その後も敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備し、何人もの庭師を雇って旅先から詳細な指示を送りました。「水の庭」では睡蓮を栽培し、池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植えました。アメリカや日本から多くの画家やコレクターがモネを訪れています。経済的に安定し、当時まだ珍しかった自動車を購入するなどの贅沢も楽しみました。
モネは庭に咲く藤や芍薬など多彩な草花を描いています。1890年代後半からは300点もの〈睡蓮〉に取り組みました。友人で政治家のクレマンソー(1841-1929)に大装飾画の計画を働きかけ、巨大な専用アトリエを建てて史上最大の〈睡蓮〉を制作しました。この〈睡蓮〉は国家へ寄贈され、今日もパリのオラン
ジュリー美術館で公開されています。
1908年頃からモネは視覚障害に悩まされ、1923年に白内障の手術を受けています。私生活ではエルネスト・オシュデが1891年に没し、未亡人となったアリスと翌年正式に再婚し、1911年のアリスの没後は義理の娘ブランシュが最晩年のモネを支えました。
当初は風景として描かれていた〈睡蓮〉は、次第に視線が水面に集中していきます。視力の衰えとともに筆致はより粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占めるようになります。そして大画面を色と光の筆致が覆う晩年の作品群は20世紀半ばの抽象美術家を刺激し、モネ芸術は新たな注目と再評価を受けるのです。
ジヴェルニーでモネが情熱を注いだのは絵の制作とガーデニングでした。 池の水面を間近にとらえ、まるで大画面の一部のような作品です。赤み を帯びた白い睡蓮が豊かな花弁を広げ、切れ込みのある円い葉とともに 池に浮かんでいます。クローズアップした構図を素早く粗い筆致でとらえ、 青や紫など様々な色を使って活き活きと描かれています。
睡蓮の池
庭の樹々や空の雲が、まるで鏡像のように池の水面に映し出され、その色と形が睡蓮の花や葉と 交ざり合い、明るく暖かな色彩の見事な調和が構成されています。遠景になるほど光の量は増し、 池の片隅に立って制作するモネの眼と、絵を見る私たちの眼が重なります。視覚障害を患いなが らも制作に打ち込んでいた晩年の大作の一つです。
【学芸員さんのコラム】 大阪中之島美術館 研究副主幹 小川 知子氏
1970年、日本で初めてクロード・モネの回顧展が開かれました。以後、 今日に至るまでモネの名を冠した展覧会は日本でも数多く開催されてい ます。美術史を語るうえで欠かせない巨匠であるのはもちろん、モネの絵は 多くの美術ファンを魅了します。特にジヴェルニーで描かれた〈積みわら〉や 〈睡蓮〉、ロンドンで描いた〈ウォータールー橋〉などの連作は、奥深く抽象 的な世界が画面に広がり、私たちはモネ自身の眼を体験するかような不 思議な没入感に導かれます。そして1枚のカンヴァスに構成された色と光 のハーモニーは、心を揺さぶる視覚体験として残ります。 「モネ 連作の情景」は、「100%モネ」の言葉通り、モネ芸術の鑑賞に 集中できるという点で従来の展覧会とは一線を画しています。まだサロン (官展)に憧れていた青年時代から、巨匠として名声を博してもなお制 作に格闘し続けた最晩年まで、画家の86年にわたる生涯を、大阪会場 では50か所を超える国内外の美術館からお借りした作品によって追える 貴重な機会です。「連作」という手法は一昼夜で生まれたものではなく、モ ネが長い画業の中で到達したことにご納得いただけると思います。
モネは2度の結婚を通じて、自身の2人の息子を含む8人の子を育て、良き家族や友人に恵まれて幸せな生涯を送りました。若い頃の 貧困や妻の死、晩年の病にも立ち向かう生命力と、制作に関しては強い信念の持ち主でした。そしてモネは浮世絵を生み出した日本を 敬愛し、1923年の関東大震災の際には展覧会の収益を義援金に充てています。 この展覧会を通じて皆さまがモネ作品の世界を堪能されることを願っています。
【講演会】
1. 「モネ ジヴェルニーの庭と食卓」
2024年3月9日(土)林綾野(キュレーター・アートキッチン代表)
2. 「モネの魅力、〈連作〉の謎」
2024年3月24日(日)島田紀夫(実践女子大学名誉教授・日本側監修)
3. 「モネのジャポニスム」
2024年4月20日(土)小川知子(大阪中之島美術館 研究副主幹)
※1~3いずれも14:00~15:30(開場13:30)
※会場は大阪中之島美術館 1階ホール
※定員:150名(先着順、申し込み不要)※聴講無料、ただし観覧券(半券可)が必要。
【展覧会オリジナルグッズ】
本展を記念して「PEANUTS meets Monet」のスペシャルコラボが決定!
睡蓮の葉に乗るスヌーピーとウッドストックなど様々なグッズが登場します。
【展覧会概要】
■企画展名:モネ 連作の情景 Claude Monet : Journey to Series Paintings
■会 期:2024年2月10⽇(土)~5月6⽇(月・休)
■開館時間:10:00~18:00 ※最終入館は 17:30まで
■休 館:月曜日(2月12日、4月1日、15日、22日、29日、5月6日は開館)
■会 場:大阪中之島美術館 5階展示室 [〒530‐0005 大阪市北区中之島4‐3‐1 ]
■主 催:大阪中之島美術館、関西テレビ放送、産経新聞社
■後 援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ、大阪市教育委員会、堺市教育委員会、
(公財)大阪観光局、山陰中央テレビジョン放送、岡山放送、テレビ新広島、テレビ愛媛、
高知さんさんテレビ、テレビ西日本、ラジオ大阪、FM802、FM COCOLO
■企 画:ハタインターナショナル
■特別協賛:にしたんクリニック
■協 賛:第一生命グループ、NISSHA
■協 力:KLMオランダ航空、日本航空、ルフトハンザ カーゴ AG、ルフトハンザ ドイツ航空、ヤマト運輸
■監 修:ベンノ・テンペル(デン・ハーグ美術館館長)
■監修協力:マイケル・クラーク(スコットランド・ナショナル・ギャラリー前館長)
■日本側監修:島田紀夫(実践女子大学名誉教授)
■料 金: 一般 2,500(2,300)円、高大⽣ 1,500(1,300)円 、小中⽣ 500(300)円
*展示室が混雑した場合は、入場制限や整理券を配布する場合があります。
*未就学児は無料。( )内は20名以上の団体料金。
*障がい者手帳をお持ちの方(介護者1名を含む)は当日料金の半額(要証明)。
ご来場当日、2階のチケットカウンターでお申し出ください。(事前予約不要)
*本展は、大阪市内在住の65歳以上の方も一般料金が必要です。
*団体鑑賞をご希望の場合は、事前に大阪中之島美術館公式ホームページから、団体受付フォームにて
お問い合わせください。
*学校団体の場合はご来場の4週間前までに大阪中之島美術館公式ホームページ学校団体見学のご案内
からお申し込みください。
*災害などにより臨時で休館となる場合があります。
■お問合せ: 06‐4301-7285 (大阪市総合コールセンター) 受付時間 8:00~20:00(年中無休)
■展覧会公式サイト:https://www.monet2023.jp/
■関西テレビイベントサイト:https://www.ktv.jp/event/monet2024