Le dernier Monet:Paysages d'eau

 

モネ 睡蓮のとき

 

 

2025年3月7日(金)~6月8日(日)

 

京都市京セラ美術館 本館  北回廊1階・南回廊1階

 

※当展覧会のご招待チケットを日頃のご愛顧に感謝して2名1組、計4名の方に抽選の上プレゼントいたします。HP内お問合せより、「件名:睡蓮のとき」とご明記の上お送りください。1月31日締め切り。当選者にはメールでお知らせと共に発送いたします(郵送料不要)

 

 

印象派の巨匠クロード・モネ

日本初公開作品7点を含む およそ50点が春の京都に集う、究極のモネ展。

大画面の〈睡蓮〉に包まれた、風景の中へ。

 

 印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840‐1926)は、光と色彩をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。

 

 モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体と映し出されるその水面でした。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす”大装飾画”の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、2mを超える大画面の〈睡蓮〉の数々です。

 

 今回、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開作品を含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模となる〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります。

 

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見どころ

 

(1)モネ最後の挑戦 ーーー ”光の画家”集大成となる、晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展

 

(2)世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開作品7点を含む、厳選された

   50点が来日

     さらに、日本に所蔵される名画も加えた、国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインナップ

 

(3)モネ晩年の最重要テーマ、「睡蓮」の作品20点以上が展示

 

(4)2メートルを超える大画面の〈睡蓮〉に囲まれて、モネの世界に浸る、本物の没入体験

 

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第1章 セーヌ河から睡蓮の池へ

 

 1890年、50歳になったモネは、7年前に移り住んだノルマンディー地方の小村ジヴェルニーの土地と家を買い取り、これを終の棲家とします。それはまた彼が、同一のモティーフを異なる時間や天候のもと繰り返し描く、連作の手法を確立した時期でもありました。やがて画家の代名詞ともなるジヴェルニーの自邸の庭はしかし、すぐにその作品へと結実したわけではありません。1890年代後半に主要なモティーフとなったのは、モネが3年連続で訪れたロンドンの風景や、彼の画業を通じてつねに最も身近な存在であったセーヌ河の風景でした。とりわけ、この時期に描かれたセーヌ河の水辺の風景では、しばしば水面の反映がかたちづくる鏡像に主題が置かれており、のちの〈睡蓮〉を予見させます。

 1893年、モネは自邸の庭の土地を新たに買い足し、セーヌ河の支流から水を引いて睡蓮の池を造成します。この”水の庭”がはじめて作品のモティーフとして取り上げられたのは、それから2年後のことでした。さらに、池の拡張工事を経た1903年から1909年までに手掛けられたおよそ80点におよぶ〈睡蓮〉連作において、画家のまなざしは急速にその水面へと接近します。周囲の実景の描写はしだいに影をひそめ、ついには水平線のない水面とそこに映し出される反映像、そして光と大気が織りなす効果のみが画面を占めるようになりました。こうして、セーヌ河を流れる水は睡蓮の池へと姿を変え、晩年のモネにとって最大の創造の源となったのです。

 

クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ河、ばら色の効果》1894年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ河、ばら色の効果》1894年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB

 

1896年から1898年にかけ、モネはジヴェルニーからほど近いセーヌ河の眺めを主題とする連作およそ20点を制作しました。いずれの作例においても視点は厳密に固定され、画面中央を走る水平線を境に木々とその反映が鏡像をなします。制作にあたり、画家は毎朝3時半に起床しては、早朝の光と大気の微妙な変化にしたがい、14点ものカンヴァスを並行して手掛けたといわれます。本作では、未明のほのかな光と朝霧に包まれた風景が、青、紫、深緑、ばら色からなるやわらかな色彩の調和のうちに表されます。この詩情豊かな連作はしばしばカミーユ・コローの作品とも比較され、モネに大きな名声をもたらしました。

クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB

 

モネが初めて睡蓮を描いたのは、池の眺めが最初に描かれた1895年からさらに2年後の1897年のこととされています。本作は、その最初期の〈睡蓮〉と推定される作品の一つです。ここでは後年の連作とは対照的に、水面を淡いばら色に染める夕暮れの光の効果よりもむしろ、睡蓮の花それ自体がクローズ・アップされ、細やかな筆致で描写されています。白い花のモティーフは、画家と親交に深かった象徴派の詩人ステファヌ・マラルメによる散文詩「白い睡蓮」を想起させます。1897年にジヴェルニーのアトリエを訪れた人物の証言や画家自身の手紙の言葉によれば、このときすでにモネは小規模ながら睡蓮の装飾画の構想を心に抱き、その習作の制作に着手していました。

 

クロード・モネ《睡蓮》1907年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Mone
クロード・モネ《睡蓮》1907年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Mone

 

「水と反映の風景に取りつかれてしまいました。老いた身には荷が重すぎますが、どうにか感じたままを描きたいと願っています」と、モネは1908年に書いています。本作は、1907年に手掛けられたおよそ15点の同構図の作例の一つです。ここで画家は、水平方向に広がる池の空間に本来そぐわない縦型のカンヴァスをあえて選択することで、モティーフから黄昏時の光と大気の効果のみを抽出することに注力しています。筆の動きは奔放さを増し、とりわけ画面上部において、木々の反映と睡蓮の葉は輪郭を失い混然一体と化しています。本作を含む48点の〈睡蓮〉が、1909年に「睡蓮:水の風景連作」と題された個展で発表されました。

 

 

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第2章 水と花々の装飾

 

 装飾芸術がかつてない隆盛を見た19世紀末のフランスでは、多くの画家たちが装飾画の制作に取り組みました。モネもその例外ではなく、彼が初めて本格的な装飾画を手掛けたのは、1870年代の印象派時代にさかのぼります。やがて、1890年代を通じて連作の展示効果を追求する中で、睡蓮という一つの主題のみからなる装飾画の構想がその心に芽生えます。

 1909年の「水の風景連作」展以降、のちに白内障と診断される視覚障害の兆候や最愛の妻の死をはじめとする不幸は、モネの画業に一時の空白期間をもたらしました。しかし1914年に再び創作意欲を取り戻すと、かつて抱いた装飾画の構想に精力的に取り組みはじめます。当初は睡蓮のみならず、池の周囲に植えられた多種多様な花々をもそのモティーフとして想定していたのでしょう。大の園芸愛好家であったモネは、さながらカンヴァスに絵具を置くように、その庭を色彩豊かな花々で彩りました。なかでも、実現することなく終わった幻の装飾画の計画において重要な役割を担っていたのが、池に架けられた太鼓橋の藤棚に這う藤と、岸辺に咲くアガバンサスの花でした。ところが、最終的にモネはそれらの花々による装飾の考えを放棄し、壁一面の池の水面とその反映によって覆うことを選びます。

 

クロード・モネ《キスゲ》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《キスゲ》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《藤》1919-1920年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ   © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《藤》1919-1920年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ   © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《藤》1919-1920年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ   © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
クロード・モネ《藤》1919-1920年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ   © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB

1920年、モネは計12点の睡蓮の装飾パネルをフランス国家へ寄贈することに合意し、その専用の展示館を新たに建設するための場として、敬愛する彫刻家オーギュスト・ロダンの美術館が開館してまもないオテル・ビロンの敷地を指定します。この当初の計画においては、円形の建物の四方を飾る睡蓮の壁画の上部に、藤の花をモティーフとするフリーズ(帯状装飾)が設置される予定でした。結局、展示館を新設する計画は財政上の問題などから頓挫し、今日オランジュリー美術館として知られるチュイルリー公園の既存の建物へと場所を移す過程で、藤のフリーズの構想も断念されます。この2点の《藤》は、現存する8点のフリーズの習作の中でも最も大きなもので、ひときわ明るい色彩と伸びやかなストロークによって描かれています。

 

クロード・モネ《アガパンサス》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《アガパンサス》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

オテル・ビロンの計画において、睡蓮の壁画を構成していた四つの主題の一つが《アガバンサス》でした。本作は、3点のパネルからなるこのアガバンサスの装飾画のための習作です。1921年に撮影されたこの装飾画の写真では、左パネル(現クリーヴランド美術館蔵)に本作と同一の優美な曲線を描くアガバンサスの花が認められ、モネが習作からその形態を注意深く写し取ったことが分かります。ところが、その後いずれかの時点で画家は、この花のモティーフを左パネルの画面からすっかり消し去ってしまいます。そして、当初案の四つの主題のうちアガバンサスだけが、最終的なオランジュリーの大装飾画に受け継がれることなく放棄されました。

 

クロード・モネ《睡蓮》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

本作もまたオテル・ビロンの装飾画のうち《アガバンサス》に関連する習作で、その構図が装飾画の右パネル(現ネルソン=アトキンズ美術館蔵)に用いられています。正方形のカンヴァスは晩年のモネが好んで用いた画面の形式であり、大装飾画に関連する縦横2メートル四方の作例として、本作や国立西洋美術館所蔵の《睡蓮》を含むおよそ10点が知られます。ここでは、対角線上の両端が拮抗するように睡蓮のモティーフが配され、緊張感みなぎる構図を形成しています。黄昏時の光を表したものであろう青紫と黄緑の色彩のグラデーションは、同時代の批評家によって「融けた金」と評され、幻の装飾画の構想において幻想的な雰囲気をもたらしていました。

 

 

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第3章 大装飾画への道

 

 「大装飾画(Grande Dècoration)」とは、睡蓮の池を描いた巨大なパネルによって楕円形の部屋の壁面を覆うという、モネが長年にわたり追い求めた装飾画の計画です。最終的にパリのオランジュリー美術館に設置されることになるこの記念碑的な壁画の制作過程において、70代の画家は驚嘆すべきエネルギーでもって、水面に映し出される木々や雲の反映をモティーフとするおびただしい数の作品群を生み出しました。

 1914年以降の大装飾画に関連する制作を決定づけるものは、第一にその画面の大きさです。この時期の《睡蓮》は多くの場合、長辺が2メートルにおよび、1909年までに手掛けられた《睡蓮》と比べると、面積にして4倍を超えます。巨大化した作品のサイズに応じ、モネは新たに広大なアトリエを建設します。そしてこのアトリエにおいて、戸外で描かれた習作をもとに、しばしば幅4メートルにも達する装飾パネルの制作に取り組みました。それは、自然の印象から出発して、その印象を記憶とともに内面化しつつ再構成する試みであり、いうなれば印象派絵画を超える挑戦でもありました。ごく少数の例外を除き、モネはこれら大装飾画に関連する作品のほとんどを生前に手放すことなく、1926年の死の間際にいたるまで試行錯誤を重ねます。国立西洋美術館のコレクションの基礎を築いた松方幸次郎は、モネが唯一、その巨大なパネルの一つを売ることを認めた相手でした。

 

クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

池の水面に映す出される空と雲の反映は、1914年以降の制作において重要なモティーフ―の一つとなりました。本作は、青空と明瞭なコントラストをなす白い雲、鮮やかなピンク色の睡蓮の花、画面上部に垂れ下がる枝垂れ柳の葉などから、オランジュリーの大装飾画のうち、《朝の柳》の右パネルを想起させます。一方で、その自由な筆致や、水面と雲をほのかに染めるオレンジ色の光などには、最終的な画面には見られない画家の生き生きとした感覚が刻印されています。記憶を頼りに絶えず画面に筆を加える過程において、モネはこうした一見の印象を厚く塗りこめ、普遍的な自然への循環へと変貌せしめました。

 

クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮》1914-1917年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

クロード・モネ《睡蓮の池》1917-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮の池》1917-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

1917年から1919年にかけ、モネは約20点の横長の画面に、いずれもほぼ同じ視点から眺めた睡蓮の池を描きました。本作もその一つであり、第二次世界大戦中に画面右側が大きく損傷を受けたために切断されています。オリジナルの状態では、縦1.3×横2メートルの画面の両端にポプラと枝垂れ柳の樹影がさながら舞台の幕をかたちづくるように配され、オランジュリーの大装飾画のうち《日没》と同様の構図をなしていました。これらの作品は、大装飾画の制作の最終段階にあって、当初から売却を前提に手掛けられたものと考えられます。

クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

二股に分かれた枝垂れ柳の幹がかたちづくるゆるやかなS字形の反映像は、オランジュリーの大装飾画のうち《木々の反映》の中心的モティーフをなします。モネはこのモティーフにこと大きな関心を寄せていたと見え、複数の素描と6点の習作、そして2016年に再発見された国立西洋美術館所蔵の装飾パネル(旧松方コレクション)の中に描き込んでいます。縦横2メートルにおよぶ本作はその6点の習作のうちでも最も巨大なもので、荒々しいマティエールをとどめた正方形の画面の中央に、青の明暗の調子で表された樹影の茫たる形象が浮かび上がります。垂直の鋭いタッチで表された木漏れ日のきらめきは、白内障による失明の恐怖の只中にあった画家の光への渇望を伝えるかのようです。

 

 

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第4章 交響する色彩

 

 モネの絵画は、その色彩が生む繊細なハーモニーゆえに、同時代からしばしば音楽にたとえられました。1921年に洋画家の和田英作が松方幸次郎らを伴いジヴェルニーのアトリエを訪れた際、〈睡蓮〉の近作をして「色彩の交響曲」と評したところ、モネが「その通り」と答えたという逸話も知られています。しかし、1908年ごろからしだいに顕在化しはじめた白内障の症状は、晩年の画家の色彩を少なからず変容させることになりました。悪化の一途をたどる視力に絶えず苦痛を訴えながらも、モネは1923年まで手術を拒み、絵具の色の表示やパレット上の場所に頼って制作をおこなうことさえあったといいます。

 1918年の終わりごろから最晩年には、死に間際まで続いた大装飾画の制作と並行して、複数の独立した小型連作が手掛けられました。モティーフとなったのは、”水の庭”の池に架かる日本風の太鼓橋や枝垂れ柳、”花の庭”のばらのアーチがある小道などです。これらの作品は、不確かな視覚に苛まれる中にあって衰えることのない画家の制作衝動と、経験から培われた色彩感覚に基づく実験精神を今日に伝えています。画家の身振りを刻印する激しい筆遣いと鮮烈な色彩は、のちに1950年代のアメリカで台頭した抽象表現主義の先駆に位置づけられ、モネ晩年の芸術の再評価を促すことになります。

 

クロード・モネ《睡蓮の池》1918-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮の池》1918-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《日本の橋》1918年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《日本の橋》1918年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《枝垂れ柳》1918-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《枝垂れ柳》1918-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

睡蓮の池の北側のほとりに植えられた枝垂れ柳は、オランジュリーの大装飾画の第二室において重要なモティーフを構成しています。しかし、画面いっぱいに枝葉を広げる樹木単位が主役として描かれたのは、今日10点を数える1918年の連作が初めてのことです。1921年にモネのアトリエを訪れた美術史家の矢代幸雄は、この「赤茶けたアメチョコ色」と黄緑の色彩の対比をあまりに荒々しく思い、消極的な評価を下しましたが、モネは笑って、「今は変な色に想っても、将来は実に美しい色だと言うようになる」と答えたといいます。かつて印象派時代に激しい非難を浴びた画家は、時代によって美の基準が決して一様でないことを、誰よりもよく認識していたのでしょう。

 

クロード・モネ《日本の橋》1918-1924年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《日本の橋》1918-1924年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

睡蓮の池に架かる太鼓橋をモネが初めて描いたのは、”水の庭”が造成された2年後の1895年のことです。この太鼓橋のモティーフは画家が蒐集していた葛飾北斎や喜多川歌麿の浮世絵から想を得たとされています。もっとも、広義の橋一般はモネが画業を通じ繰り返し取り上げたモティーフであり、1899年から1901年のロンドンでの制作においても重要な位置を占めました。しかし、今日24点が知られる最晩年の〈日本の橋〉連作において、モネはこのモティーフをほとんど抽象的といってよい色彩と筆触の渦へと還元しています。この時期には、白内障の進行に伴う色覚の異常も影響し、しばしば鮮烈な赤が画面を支配するようになりました。

 

クロード・モネ《ばらの庭から見た家》1922-1924年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ばらの庭から見た家》1922-1924年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

 

モネの手になる最後のイーゼルがの連作は、自身が40年にわたり暮らした家を、ばらの花が咲き誇る庭から眺めた情景でした。今日18点が知られるこの連作は、画家の家を正面から捉えたものと、木立越しに斜めから捉えたものとに大別されます。本作は後者の8点の一つです。この8点の連作において、モネは構図を厳密に固定しながら、異なる色彩の配置を実験するように、きわめて大胆に色調を変化させています。うち1点には1922年の年記が認められる一方で、1925年に詩人のポール・ヴァレリーから死の前年の25年にまで下ると考えられます。

 

 

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エピローグ さかさまの世界

 

 「大勢の人々が苦しみ、命を落としている中で、形や色の些細なことを考えるのは恥ずべきかもしれません。しかし、私にとってそうすることがこの悲しみから逃れる唯一の方法なのです。」大装飾画の制作が開始された1914年に、モネはこう書いています。折しもそれは、第一次世界大戦という未曽有の戦争が幕を開けた同年のことでした。そして1918年に休戦を迎えると、時の首相にして旧友のジョルジュ・クレマンソーに対し、戦勝記念として大装飾画の一部を国家へ寄贈することを申し出ます。その画面に描かれた枝垂れ柳の木は、涙を流すかのような姿から、悲しみや服喪を象徴するモティーフでもありました。

 モネがこの大装飾画の構想において当初から意図していたのは、始まりも終わりもない無限の水の広がりに鑑賞者が包まれ、安らかに瞑想することができる空間でした。それは、ルネサンス以来西洋絵画の原則をなした遠近法(透視図法)による空間把握と、その根底にある人間中心主義的な世界観に対する挑戦であったとも言い換えられるでしょう。画家を最後真励まし続け、その死後1927年の大装飾画の実現に導いた立役者であるクレマンソーは、木々や雲や花々が一体となってたゆたう睡蓮の池の水面に、神羅万象が凝縮された「さかさまの世界」を見出します。モネの〈睡蓮〉は、画家が生きた苦難の時代から今日にいたるまで、人々が永遠の世界へと想いを馳せるよすがともなったのです。

 

クロード・モネ《枝垂れ柳と睡蓮の池》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《枝垂れ柳と睡蓮の池》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB

 

この2点はいずれも、オランジュリーの大装飾画のうち《朝の柳》の左パネルに関連する習作で、No.20の枝垂れ柳が描かれた場所から画面奥の岸辺まで近づき、水面へと視線を移したものが、No.21の《睡蓮》です。後者と同じ視点

から描かれたNo.10の《睡蓮》においては、もっぱら水面に映る柳の反映像が構図の要をなしていたのに対し、ここでは加えて、池の外から垂れ下がる柳の葉の実像が重要な構成要素となっています。しかし、とりわけNo.21において、画面左半分を占める柳の実像と虚像の境界はそれと識別できないほど曖昧であり、両者がちょうど交わる位置に配された睡蓮とともに、混沌とした様相を呈しています。画面右のちぎれた柳の葉の断片は、それら二つの世界のはざまで浮遊するかのようです。モネは異なる視点から描かれたこの2点の習作を組み合わせ、大装飾画の画面を構成しました。

 

 

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【開催概要】

 

展覧会名:モネ 睡蓮のとき

開催期間:2025年3月7日(金)~6月8日(日)

開催会場:京都市京セラ美術館 本館  北回廊1階・南回廊1階

     [〒606‐8344 京都市左京区岡崎円勝寺町124]

開館時間:10:00~18:00  ※入場は17:30まで

休  館  日:月曜日 ※ただし4月28日(月)、5月5日(月・祝)は開館

観  覧  料:一般    2,300円(2,100円)

     大学・高校 1,700円(1,500円)

     中学・小学 1,000円(800円)

     ※本展は優先予約制。美術館HPより予約いただけます。

     ※( )は前売・団体20名以上の料金

     ※未就学児無料

     ※障害者手帳等ご提示の方は本人及び介護者1名無料(障害者手帳等確認できるものをご持参ください)

     ※学生料金でご入場の方は学生証のご提示をお願いいたします。

     ※入場券の変更・払戻・再発行・転売不可

主  催:マルモッタン・モネ美術館、読売テレビ、読売新聞社、キョードーエンタテインメント、京都市

後  援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ

特別協賛:大成建設

協  賛:第一生命グループ、光村印刷

協  力:日本貨物航空、NX 日本通運、FM802、FM COCOLO

企画協力:NTVヨーロッパ

一般のお問合せ:京都市京セラ美術館 075-771-4334

公式ウェブサイト:https://www.ytv.co.jp/monet2025/

美術館ウェブサイト:https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20250307-20250608