山王美術館コレクションでつづる

エコール・ド・パリ展

 

2025年3月1日(土)~7月31日(木)

 

 20世紀はじめ、「芸術の都・パリ」には、世界各地から多くの芸術家が集いました。若き芸術家たちは、モンマルトルの「パトー・ラヴォワール(洗濯船)」や、モンパルナスの「ラ・リューシュ(蜂の巣)」といったアトリエ集合住宅に集住し、交流を深めながら制作に励んだのです。

 のちに「エコール・ド・パリ」と呼ばれた一群の芸術家たち。その多くは、フランス国外からパリへと渡り、モンパルナスを中心に集まった画家・彫刻家たちでした。ロシアのシャガール、スーティン、イタリアのモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、日本の藤田嗣治、さらにフランス人画家のユトリロやローランサンらが代表的な画家とされます。彼らは、特定の流派や美術運動のように、明確な芸術理論や主義のもと制作にあたったわけではありません。しかしながら、フォーヴィスムやキュビスムをはじめとする新たな芸術様式や理論に刺激をうけ、ときにはアフリカをはじめとする原始美術をも着想源としつつ、それぞれが母国の伝統や民族性に根ざした独自の表現を探究していきました。1920年代に最盛期をむかえ、第二次世界大戦により実質的な終焉を迎えますが、エコール・ド・パリの画家たちにより、多様かつ豊富な芸術がパリに花開いたのです。

 本展では、山王美術館コレクションの中より、ローランサン、ユトリロ、モディリアーニ、パスキン、藤田嗣治、キスリングらの作品を展示します。

 


みどころ

 

ポイント①  エコール・ド・パリを代表する6人の画家が織りなす多彩かつ独創的な絵画の世界

 

ふたつの大戦のはざま「レ・ザネ・フォル(狂騒の時代)」に花開いたエコール・ド・パリ。

芸術の都・パリに世界各地から集まった若き画家たちは、アカデミックな規範や様式から解放され、フォーヴィスムやキュビスムをはじめとする新たな芸術様式に刺激をうけながらも、画家自らの芸術表現を模索していきました。

   〇グレーの諧調に淡い色調、やわらかな筆づかいによる優美な女性像のローランサン。

   〇哀感ただようパリの街並みを描きつづけたユトリロ。

   〇細長く引きのばされた人体、官能的な裸婦像と独特のスタイルを確立したモディリアーニ。

   〇「真珠母色」と称された淡い色彩とふるえるような線描が印象的なパスキン。

   〇なめらかな白いカンヴァスに細くしなやかな線描を生かした独自の画風で人気を得た藤田嗣治。

   〇鮮やかな色調のコントラストと、つややかな質感をもつマティエールが特徴的なキスリング。

エコール・ド・パリを舞台に、独自のスタイルを確立したローランサン、ユトリロ、モディリアーニ、パスキン、藤田嗣治、キスリングらの絵画約30点を展示いたします。

 

ポイント② 新コレクション12点が初展示

 

近年収蔵した、ローランサン5点、ユトリロ1点、モディリアーニ1点、パスキン1点、藤田嗣治1点、キスリング3点の絵画を本展にて初公開いたします。

 

ポイント③ 「ここでしか会えない芸術作品」

 

山王美術館では、2009年のオープン以来、コレクションのみによる展覧会を開催してきました。本展で展示する作品の何れもが、「ここでしか会えない芸術作品」です。本展を通じて、山王美術館コレクションの新たな魅力に触れていただければ幸いです。

 

┈━┈┈━ ◇ ━┈━┈━  ┈━┈┈━ ◇ ━┈━┈━ ┈━┈┈━ ◇ ━┈━┈━

 

マリー・ローランサン《少女たち》1929年 山王美術館
マリー・ローランサン《少女たち》1929年 山王美術館
【初展示】マリー・ローランサン《真珠で装うエヴァリン》1936年 山王美術館
【初展示】マリー・ローランサン《真珠で装うエヴァリン》1936年 山王美術館

マリー・ローランサン(Marie Laurencin)

 

1883 - 1956

 

パリに生まれ、同地にて没。

本格的に絵画を学ぶため私塾アカデミー・アンベールに入る。ここでブラックと出会い、ピカソをはじめとすバトー・ラヴォワール(洗濯船)に住む前衛芸術家たちと親交を結ぶ。1907年、ピカソの紹介で詩人アポリネールと知り合い、恋愛関係になる。1914年に、ドイツ人男爵と結婚し一時ドイツ国籍となったが、1921年に単身パリへと戻り、離別。ふたたびフランス国籍となる。1921年、戦後初の個展が成功をおさめる。1923年に描いた肖像画が評判をよび、上流階級の婦人たちからの注文が相次ぎ、社交界においても人気を博す。パステルカラーの色彩とやわらかな筆づかいによる独自の画風をつくりあげた。

 

【初展示】モーリス・ユトリロ《サン=リュスティック通り(モンマルトル)》1919年頃 山王美術館
【初展示】モーリス・ユトリロ《サン=リュスティック通り(モンマルトル)》1919年頃 山王美術館
モーリス・ユトリロ《雪のサン=リュスティック通り(冬のサクレクール)》1940年頃 山王美術館
モーリス・ユトリロ《雪のサン=リュスティック通り(冬のサクレクール)》1940年頃 山王美術館

モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)

 

1883 - 1955

 

パリに生まれダクスにて没。ルノワールやロートレックのモデルを務め、後に画家として活躍したシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる。パリに住む母親と離れ、パリ郊外の祖母のもとで育てられた。12歳よりパリ市内の中学校に通うが、アルコール依存症の兆候などにより1900年に退学。その後、強度の飲酒ぐせを治療するために入院するが、何度も入退院を繰り返すこととなる。絵画を描き始めたのは治療の一環として医師から勧められたためであり、正規の美術教育は受けることなく、独学のままであった。モンマルトルを中心にパリの街並みを描きつづけたが、1908年ごろからは実景に即してではなく、アトリエにて絵葉書や写真を用いて描くようになる。個展が成功をおさめた1919年ごろより評価が高まり、「エコール・ド・パリ」の代表的な画家のひとりとなった、

 

【初展示】アメデオ・モディリアーニ《ほくろのある女性》1906‐1907年頃 山王美術館
【初展示】アメデオ・モディリアーニ《ほくろのある女性》1906‐1907年頃 山王美術館

アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Modigliani)

 

1884 - 1920

 

イタリアに生まれ、パリにて没。

イタリア・トスカーナの港町リヴォルノのユダヤ人家庭に生まれる。生来病弱であり、11歳から16歳にかけて胸膜炎、腸チフス、結核を患う。15歳より、本格的に絵画の道を志し、母国にて絵画・彫刻を学ぶ。1906年、パリに移住。モンマルトルやモンパルナスに住み、藤田嗣治、キスリングらと交流する。1909年、彫刻家のブランクーシと出会い、石彫に打ちこむが、健康上・経済的な理由により断念。1914年ごろより再び絵画へと転向する。細長く引きのばされた人体を特徴とする独特の様式を確立。1917年に初の個展を開催するが、意欲的に取り組んだ裸婦像が物議をよぶ。飲酒や麻薬により身体を蝕まれ、健康状態が急激に悪化。意識不明の状態で発見され、パリの慈善病院にて短い生涯を閉じた。

 

【初展示】ジュール・パスキン《コートのマリネット》1927年 山王美術館
【初展示】ジュール・パスキン《コートのマリネット》1927年 山王美術館

ジュール・パスキン(Jules Pascin)

 

1885 - 1930

 

ブルガリアに生まれ、パリにて没。

両親はともにブルガリア系のセファルディム(スペイン系ユダヤ人)であった。ウィーンにて中等教育を修めたのち、ブダペストとウィーン、さらにミュンヘンにて美術教育を受ける。素描の才を認められ、1904年にはドイツの風刺雑誌『ジンプリツィスム』の挿絵画家として専属契約を結ぶ。掲載にあたって父親からの要求により、本名の「Pincas(ピンカス)」の綴りを並びかえた「Pascin(パスキン)」をサインとして用いるようになる。1905年にパリに出て油彩画に取り組みはじめる。1907年ベルリンで個展、1913年にはニューヨークで開催された「アーモリー・ショー」に出品し好評を博す。第一次世界大戦中は戦火を避け渡米、アメリカ国籍を得た。1920年10月にパリに戻り、モンマルトルに居をかまえながらモンパルナスに通い、キスリング、藤田らと交友する。この頃、うすく溶いた絵具による淡く虹色を帯びた色彩と、ふるえるような細い線描が融合した独自の画風を確立。「真珠母色の時代」と称された。退廃的な生活の末、個展開催を直前に控えた1930年6月2日にアトリエにて自ら命を絶つ。葬儀当日の6月7日、パリ中の画廊が店を閉じ、画家に弔意を表した。

 

藤田嗣治(Léonard Foujita)

 

1886 - 1968

 

東京に生まれ、チューリッヒにて没。

1905年東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科へ入学、1910年に同校を卒業。1913年にフランスへと渡り、ピカソら前衛的な画家たちと交流する傍らで古典美術を研究。1919年のサロン・ドートンヌでは、初出品作6点がすべて入選するという快挙をなし、会員となる。やがて「乳白色の下地」による独自の技法を見出し、1921年のサロン・ドートンヌに出品。その後、審査員に推挙され、エコール・ド・パリの一員として輝かしい名声を得る。1931年に中南米へと渡り、1933年に一時帰国。1939年に再渡仏するが、第二次世界大戦の勃発により、翌年に帰国する。戦後、1950年にフランス国籍を得、1959年にはカトリックの洗礼を受ける。洗礼名はレオナール。以後、作品には「L.Foujita」または「Léonard Foujita」とサインする。晩年は宗教的主題や子供を多く描き、自ら設計したランスの礼拝堂のフレスコ画制作に取り組んだ。

 

【初展示】モイーズ・キスリング《路上の女性》1916年 山王美術館
【初展示】モイーズ・キスリング《路上の女性》1916年 山王美術館
【初展示】モイーズ・キスリング《ドリー》1933年 山王美術館
【初展示】モイーズ・キスリング《ドリー》1933年 山王美術館
【初展示】モイーズ・キスリング《庭園の裸婦》1947年 山王美術館
【初展示】モイーズ・キスリング《庭園の裸婦》1947年 山王美術館

モイーズ・キスリング(Moïzu Kisling)

 

1891 - 1953

 

ポーランドに生まれ、南フランス サナリーにて没。

ポーランドのクラクフにユダヤ人として生まれる。同地の美術学校で絵画を学ぶ。1910年パリに出て後は、ピカソやブラック、モディリアーニらと親しく交流。エコール・ド・パリを代表する画家として活躍。誠実で社交的な性格から、そのアトリエには多くの芸術家が集った。第一次世界大戦では自ら志願し外国人部隊に従軍。その軍功によりフランス国籍を取得する。第二次世界大戦中はアメリカに亡命し、フランスに残留した芸術家たちの支援活動にも積極的に関わる。大きな瞳をもつ女性像は、憂いをおびた表情をもつとともに官能性をそなえており、鮮やかな色彩のコントラストと、つややかな質感をもつマティエールが特徴的である。

 

┈━┈┈━ ◇ ━┈━┈━  ┈━┈┈━ ◇ ━┈━┈━ ┈━┈┈━ ◇ ━┈━┈━

 

開催概要

 

展覧会名:山王美術館コレクションでつづる エコール・ド・パリ展

会  期:2025年3月1日(土)~7月31日(木)

休  館  日:火曜日・水曜日(ただし、4月29日、5月6日は開館)

開館時間:10時~17時(入館は16時30分)

会  場:山王美術館

     〒540-0001 大阪府大阪市中央区城見2丁目2‐27

     TEL   06-6942-1117   

     HP   https://www.hotelmonterey.co.jp/sannomuseum/

入  館  料:一般      1,300円

     大学・高校生  800円

     中学生以下   500円(保護者同伴に限り2名様まで無料)

     ※学生証をご提示下さい